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禎介 坂井

藤原道長の理想の寺(栄華物語にみる)

藤原道長は、平安時代に権力をほしいままとしましたが、最期には、僧侶となると共に、来世に極楽浄土(一切の煩悩やけがれの無い、仏さまや菩薩さまが住む清浄な国土)に行けるよう、さまざまな手を尽くします。なんと!道長は、法成寺という自分が極楽浄土にいくための、自分専用の寺を作りました。えらい贅沢なものですね。その寺に込められた思いが、平安時代の歴史ものがたりである栄華物語からよみとれるので、紹介します。その寺の造営の様子が事細かに記述されます。

道長はこうして出家の御身となられたけれども、御堂建立のご準備は、「浦吹く風」の絶え間なく思い続けられたからだろうか、御病も今ではすっかり元どおりに回復されたので、細堂のことをご準備あそばす。摂政殿(頼通)は諸国に対してしかるべき公事はそれはそれとして、まず第一にこの御堂のことを真っ先に奉仕申しあげるよう下されて、殿の御前(道長)も、「今度命ながらえたのはほかのことでもなく、わが願いのかなえられるしるしだ」と仰せられて、他事はさておきもっぱら御堂にいらっしゃる。方四町のまわりに大垣を造り、瓦を葺いた。あれこれと指図なさって工事をお急ぎになるので、夜の明けるのも待ち遠しく、日の暮れるのも心残りに思われて、一晩中、築山をどのように築くか、池をどのように掘るかを考え、植木を植え並べさせ、しかるべき御堂をあれこれあちこちに作り続け、仏像は尋常の御有様であってよいはずがあろうか、丈六金色の仏像を数も知れぬほど造り並べ、そちらの方を北南にかけて馬道をあけ、道をととのえお造らせになり、たくさん造らせようとなさるのに、暁を告げる鶏の鳴くのも待ち遠しく、この間、宵、暁のお勤めも怠らず、安らかなお休みもなさらないで、ただこの御堂のことばかりご執心でいらっしゃる。
(『日本古典文学全集32 栄華物語』の現代語訳)

道長が、寺の造営中に度々建築現場を訪れ指示をだしたことが記述されます。池も植木も建築も、全てを道長が師事していたのが面白いですね。今だったら、庭と建築は別の設計者なのが普通ですから。


毎日大勢の人々が参入したり退出したりして混み合っている。しかるべき殿方をはじめとして、宮々の御封や御庄から、一日に五、六百人、千人の人夫をさしあげるにつけても、人数の多いことを働きのあることに思ったりお思いになったりする。諸国の守も、小作の年貢や上納物は後回しになっても、目下のところはこの御堂の大役を進めたり、材木、瓦などをたくさんお納めすることをわれ勝ちにと競って奉仕する。およそ近くの者も遠くの者も参り集まって、さまざまな身分の者がめいめい職務に応じて場所場所を受け持ちお仕えする。ある所を見ると、仏像をお造りするというので、腕のよい大工が仏師を大勢百人ばかり連れてきて奉仕する。同じ仕事をするならば、こうした仏像を造ることが一番すばらしい。板敷を見ると、木賊、椋の葉、桃の核(さね)などを使って、四、五十人の者がそれぞれに手に持ち居並んで磨きふいている。機甘き、壁塗り、瓦作りの職人なども残らず来ている。また、年老いた法師などの、三尺ばかりの石を思い思いに切り調えている者もいる。池を掘るというので、四、五百人が下り立ち、また、築山を造るというので、五、六百人登り、また、大路の方を見ると、荷車に言うにいわれぬほどの大木の数々を綱を結いつけて大声をたてて引きながら上っている。賀茂川の方を見ると、筏というものに板や材木を入れて、棹さしながらいかにも気持よさそうに大声で謡いながら上ってくるようである。大津か梅津といった風情であるのも、「西は東」というのはこのことであったかと思われる。磐石というほどの大石を、小さな頼りない筏に載せて引いてくるが沈みもしない。およそあれやこれや言い尽すすべもない。かの須達長者が融園精合を造った時の様子もこんなふうであったろうと思われるが、冬むきの室、夏むきの室それぞれ別に建設するといった有様である。
(『日本古典文学全集32 栄華物語』の現代語訳)


 栄華物語の現代語訳

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